Column

2010.07.11

白磁赤絵細描丸紋散聞香炉及び笈形朱塗旅箪笥

前号に於いて「沈箱」を採り上げた際、 その用途についての解説が書き切れませんでした。そこで、本題に入る前に、できるだけ簡略に触れておきたいと思います。

「沈(ぢむ)」とは、奈良・平安時代に使われていた、「沈水香木(ぢんすいこうぼく)」を指す総称です。当時はまだ香木の分類は明確に為されておらず、伽羅も伽羅以外の沈香も「沈」と呼ばれていたと考えられます。従って「沈箱」とは、文字通り「沈水香木を収めておくための箱」と解釈するのが自然です。

そこで問題になるのが、「何のための沈水香木を収めたのか」ということです。

正解をもたらす鍵は、正式な「沈箱」に仕組まれる六つの小箱に必ず施される蒔絵の意匠―『源氏物語』の桐壺・帚木・若紫・紅葉賀・花宴・葵を示唆する―にあります。そして、それこそが諸説を生み出した要因でもあったのです。

なぜ、『源氏物語』なのか―。

私見によって導き出されるのは、『平安時代の宮廷文化に決定的な彩りを添えた〝香りに対する繊細な感性の発現〟であり〝美意識の象徴〟であった「薫物(たきもの)(=練香)の文化」が、後世に成立した「香道」にまで大きな影響を及ぼしていた』という仮説です。

つまり、『香道が成立した時点においては、薫物の文化もその一部に入っていた』という仮説を、「沈箱」の用途を説明する上での前提としたいと考えます。この仮説をあらゆる角度から検証するには、おそらく一冊の本を書き上げるほどの誌面が必要とされると思いますので、ここでは一点だけを採り上げます。

それは、『御家流香道具雛形寸法書』と題された文献中の記述です。

香道具の寸法等詳細の内容は、本来は流派の一大事であり、「秘伝・口伝」を原則とするものと考えられます。「秘伝・口伝」に隠された真意とは、公開することによって真似されることを嫌うというような狭い考え方に基づくものではなく、それを必要とされる門弟に対して道具の調製を許すと共に、なぜそれが必要であり、どのように使いこなすのかを正しく伝えたいという御家元・御宗家の意志の顕れであると認識しています。「道」の稽古の神髄は、いわゆる「軽薄短小」の対極にあるものであり、疑問に対する回答を安易に与えられるところには存在しないと思うからです。

故三條西堯雲宗家が私に預けて下さった寸法書には、「全」とあるのを消して、 「抄」と書き直してありました。一般的な香道具をお作りする上で必要となる部分を撰んで、纏めて下さったものでした。(奥許に繋がるものは、その都度詳細を伺い、調製させて戴きました。)

実は「全」から省かれたものの中に、『時代によりて器物用具等種々ありしも今は殆んど使用せず』とされた香道具が幾つか記載されています。一部を抜粋して列挙してみますと「香壷並びに香壷筥(箱)」・「香秤(はかり)」・「篩(ふるい)」・「薫炉」・「伏籠(ふせご)」そして「薫物箱」・「沈筥(箱)」等々です。(「香壷」と「薫物箱」とは、同じ用途でありながら素材が異なると考えられます。)

記載のされ方から、「沈箱」とは『薫物を合わせる(調合する)ために使用する沈水香木を収める箱』と解釈するのが正しいと確信できるのです。

懸籠(かけご)の下段に保管してある沈水香木を「かなうす(金臼)」で何千回も搗(つ)いては篩にかけ、さらに細かく粉末状にした上、秤で計量し、小箱に収めたのです。その小箱が六種類あるのは、「六種の薫物(むくさのたね)」と称された平安時代からの代表的な薫物の銘、すなわち「梅花(ばいか)」・「荷葉(かよう)」・「侍従(じじゅう)」・「落葉(らくよう)」・「菊花(きっか)」・「黒(玄)方(くろぼう)」に対応するものと考えることが出来ます。それぞれの銘に相応しい香気を放つと思われる香木を、予め選定しておいたのでしょう。そして、目印となる小箱の意匠に薫物の香りと極めて深い関係にある『源氏物語』から六種を選んだのは、和歌の世界における「本歌取り」にも通じる雅やかな趣向だったと、容易に想像できるのです。

薫物の文化の詳細、そして香道との関連については、機会があればまとめてみたいと思います。

さて、赤絵細描の話です。

縁あって九谷の福島武山さんに聞香炉の絵付けを引き受けて戴けたことは、本当に幸いでした。想像したものを遥かに上回る成果を、得ることが出来たからです。その成果の内容を言い表すことは容易ではありませんが、敢えて一言で表現するならば、『伝統というものの実体を、改めて教えて貰った』ということになります。

『伝統とは、常に「今」という一瞬と無関係ではいられない。いいものを生み出したいという日々の精進の積み重ねこそが、後世に伝え続けるに足るものを残すことが出来るのだ』と、武山さんの仕事が語ってくれています。そして、『仕事が道具を生み、育てるのだ』という真理の一端をも、垣間見せてくれます。切れ目なく連続する繊細で斑(むら)のない線は、探求を続けた末に得られた絵付筆(白鳳堂製)によって、実現されています。

武山さんの赤絵細描を見飽きることが無い理由は、その努力を想像するだけで気が遠くなるような、繊細な筆致の見事さだけにあるのではないと思えます。切磋琢磨の末に身につけた究極の職人技と天性の芸術的な才能とが、堅実に、そして華麗に融合している様が、見る者を惹きつけて已まないのです。

小さくて単純で平面的な聞香炉の面に、 これほどまでに深い奥行きを感じさせる 絵付けをして下さったことに対して、敬意と感謝の意を表したいと思います。

聞香炉完成の後に、二基一対を飾り置くための「笈形旅箪笥」を調製させて戴きました。これも、「沈箱」の施主妙惠様が、生前に望んでおられたものでした。

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