(20)茶・花・能と香 1

数年前、国立能楽堂の猪又宏治氏から、手作りの小冊子を頂戴しました。六歳の頃より能楽を学び、一芸を究めた白洲正子女史が一九七四年に著した『お能』から『お香とお能』の章を写したものでした。示唆に富む、一読に値する名文ゆえ、抜粋して紹介しておきたいと思います。

「香道は、茶道と切っても切れぬつながりがあることは、いまさらいうもおろかです。そしてお能とは一見赤の他人のような顔をしながらも姉妹のようなもので、いたるところに共通点が見出せます。――中略――香道は根本において香木と火とそれから人間の三つで成立するのでありますから、ひじょうに単純であるために完全をはかりやすいのです。その点お能は複雑であります。舞台芸術であるかぎり、どこまでも人間相手であるからです。人間はいろいろに人の目をあざむくものですから、なかなか信用がおけません。すこしでも人間をマシに見せるためにあらゆる点で美化しなければならないからです。そのかざりたてた外観が人目をあざむくとともに複雑に見せるのです。しかしじつはお能も香道と同じほど単純なのです。そして同じく三つのものしか必要としていません。

お能におけるシテは香木であります。

シテ以外の部分は火であります。

お能のシテが、シテを助ける背後のものとビタリと一致するときに、お能のかおりができあがるのです。その息もつけぬ微妙な瞬間は、芸術の歴史的一場面でもあります。

香木や火はありのままの自然の物ですから目をあざむきません。そのままで信用できるのです。しかしお能の舞台における人々とても実際においてすこしも香木や火と異なるものではありません。外観にあざむかれてもその事実が信用できないのは観客が悪いのです。お能の演者はみなありのままの自然の姿で、――すなわち裸一貫で演じているのです。――中略――かおりが直接体験であるように、お能もまた身にふれることができます。お能がかもしだすふんいきは、香のかおりのそれと似ているどころか同じものなのです。それをいいあわわすには別のことばはあっても、意味はただ一つよりありません。 お能における人間は(見物もふくむ)『自然と対立する人』ではなく、ありのままの自然です。――中略――

香はけっしてカクとは言いません。いつも『香は聞く』ものであります。それには『問うて答えをまつ』意味があるそうです。お能もその意味でまさしく『問うて聞くもの』です(どうぞ、謡を聞くのではありませんことを……)。

見物は好ましい一つのかおりを聞くためにお能をみるのです。そしてお能は妙なるかおりを発散して見物に答えます。『この「羽衣」のかおりはお気に召しますか?』と。その「羽衣」のかおりをかぐことのできた人だけがその問いに答えられるのです。この問答は演者と見物の対立の間に行われるのではありません。この問答はいわば、お能のひとりごとであります。――後略」