(21)茶・花・能と香 2

前号に引き続き、『お香とお能』を抜粋して紹介します。

「香道には香合といってくさぐさの香を薫いてその香を聞きあてるあそびがあります。香の上手は百発百中であります。そしてその答えは証明できるのです。お能を知る人の答えもまた百発百中ではありますが、これを具体的に証明するものはありません。究極の意味で証明できるのは、自分自身だけです。これ以上たしかな証明はありません。そこに個人を超越した大きなよろこびがあるのです。

香合はあそびにすぎません。香合の競技にふけるところには、たのしみはあってもよろこびはありません。おおぜいのなかにあろうとも、香はひとりで聞くものです。お能もひとりでみるものです。この場合ひとりというのは個人ではありません。個人をはなれた人間、人間イクオール自然という意味です。それゆえに純粋な芸術、すなわちかおりというものは個人の所有物ではなく万人のものとなります。小さな会合の世界から外に歩み出るのがこれらの芸術の使命であります。

香木が薫くとなくなるように、火も炭が灰となると同時に消えるように、一つのお能が一、二時間で永久に終わってしまうように、人間も無になりえる性質をもっています。香木が他の木片と違うことは、かをりを内にもつからです。そして香木の「内なるかおり」は「特殊の炭火」と合して目に見えぬ「ひとつのかおり」として外にあらわれます。

そのひとつのかおりを、ある名称のもとに、(たとえば「白菊」とか「柴舟」とか「初音」とか)はっきりと聞きわける人もまた特殊な人間であります。なぜならば、生きながらにしてかおりと化しえる人間だからです。それ以外に香を聞く手段はありません。香の上手はわれ知らずその瞬間にかおりと一体になっているのです。その場合まぐれあたりはひとつもありません。またそうなれる特殊な人間にとってまちがえることはありえないのです。

香のひとつひとつのかおりには名称があるのですからあきらかに証明することができます。しかし名称は説明ではありません。――中略――お能の『松風』の説明は金春禅竹によって、つぎのようにされました。

『松風』の曲は、……「秋の夕ぐれの如し」

もしほくむ海士のとま尾のしるべかは うらみてぞ吹く秋の初風 紙風や伊勢の浜荻折しきて 旅ねやすらん荒きはまべに

極端に言えば『松風』のお能は見ないでもこれだけであじわえます。

お能でもお香でも自分の全能力をひとつところに集中できるのが特殊な人間であって、けっしてその専門用語に精通する人のことではありません。そこには手にふれるものも、目に見えるものも、耳に聞こえるものもありません。あるのは鼻でかぐことにできないかおりだけです。――後略」

以上、二回にわたって『お香とお能』を引用させていただきました。白洲正子女史が到達した境地が決して特殊なものではなく、ある範囲において普遍性を持つと考えるからです。そのことについては、次号で触れたいと思います。

組香解説 代表的な秋の組香の一つに、月見香があります。

構成は極めて単純で、用いられる香木は二種のみ。月(四包。内一包は試)とウ(客香)(三包。無試)です。

月の試香を聞き終えた後、残った六包を交ぜて、三包を抜き取り、順に炷き出します。

正解の可能性は八通りあり、それぞれに名目が与えられ、さまざまな月見の情景を楽しむ工夫が凝らされています。

月月月の場合・・十五夜。三包は全て月で、旧暦八月十五日の満月に当てはめられます。

ウ月月の場合・・十六夜。客香の後に月がためらう(いざよう)ように出る情景です。

ウ月ウの場合・・木問月。客香を木に見たてています。

ウウ月の場合・・有明。客香を空の明るさとし、夜が明けても月が残っている情景です。

月月ウの場合・・待宵。有明の逆です。

月ウ月の場合・・水上月。客香は水面を表します。従って三炷目の月は、水面に映る月となります。

月ウウの場合・・夕月夜。客香は、有明の場合と同じく空の明るさを表します。

ウウウの場合・・雨夜。月が全く姿を見せず、客香は雨を表します。