(22)茶・花・能と香 3

お能が演じられる瞬間に、そして香木の小片が銀葉の上で炷き出される瞬間に、解き放たれるかおりを十分に深く味わうために、一体何が必要とされるのでしょうか。知識でしょうが、あるいは経験でしょうか。

唯一必要なのは、知識でも経験でもなく、ただ無心に聞くことです。聞くと言うことは、相手と一体となるべく自らの感性を研ぎ澄ますことに他なりません。無心に聞くことによってのみ、かおりを知ることができるのです。大海に浮かんで水を知るように、大空を漂って風を知るように、かおりをしるのです。

無色透明のかおりと一体となるとき、自らの存在もまた「空」と化します。

「空」と化したものに、もはや顔も、手も、足も存在しません。無論、鼻もありません。

白洲正子女史の「鼻でかぐことのできないかおり」とは、そのような境地を指すのではないかと解するのです。

女史は、そのような境地にある「香の上手」を「特殊な人間」とし、さらには「香道の目的がかおりをあてる競争にあるとされているのは、くやしいことです」と述べておられます。この点に関しては、本連載第5回「香道の真髄」より抜粋し、引用しておきたいと思います。

「香道を理解する上で基礎となるのが、香を聞き分けること、そして一木の香気を深く味わい尽くすことの楽しさを知ることです。それは、一月号の冒頭に引用した香道志野流第二十世家元 蜂谷宗玄宗匠の言葉からもうかがえますし、また香道御家流第二十一代宗家 故三條西堯山宗匠の「香道は香味を知ることに始まって、それを悟るところに終わるのである。香味を理解してはじめて香が炷けるのである」との言葉にも要約されています。

香道の本質は、端然とした手前作法の見事さや、工夫を凝らした道具の美しさにあるのではなく、わずか四ミリ角、厚さ0.五ミリの小さな香木のかけらの中に隠れているのです。手前作法や香道具は、その隠れた何かをこの世に引き出すための過程であり、手段に過ぎないのです。何をどの程度まで引き出せるかは、その香木を炷く人の心身の在り様にかかっています。だからこそ、香道は単なる風流や雅にとどまらず、「道」で在り得るのです。」

確かに、香道と言えば一般的に組香を連想させますし、香席ではたいていの場合組香が行われ、「香り当て競争」との印象を与え易いことは否定できません。しかしながら、香道を志す人々が全て「香り当て競争」を目的として何年も、何十年も稽古をつづけているわけではありません。

きっと誰もが、一度はかおりと一体となり、「空」となる、言語に絶する瞬間を味わっているのだと思います。たとえ、香道を志さずとも、無心に香を聞ける人なら誰でもが、「特殊な人間」に成り得るのです。

組香解説

名所香は、花の芳野・紅葉の立田を題材にした組香で、盤・立物を用います。連衆は芳野方と立田方に分かれ、聞き当てた香の数だけ立物(芳野方は花、立田方は紅葉)を進めます。

香元・執筆(筆者)の他に盤者が加わります。一炷聞きで、八角一枚札と呼ばれる香札を用います。

香木は四種で、一・二・三として各四包、内各一包は試、客として一包(無試)。試香の後、十包を打ち交ぜて、順次炷き出します。

一炷目を聞き損じた場合、立物を抜いて、その場に伏せ、次に聞き当てた時、たてることができます。

一方が中央の分捕場に到達し、相手方が聞き損じた場合、一間後退します。更に一方が聞き当て、相手方が聞き損じたら、その場に立物を抜いて伏せ、再び立てることは許されません。

聞き当てた数の合計で勝敗を決します。