Column

2010.07.11

連載の始めにあたって 創造者の系譜~十文字美信さんのことなど

「肩書き」というものに対してほとんど拘りを持たない自分自身に、改めて気づいています。それに、「香木・香道具の専門家」と聞かされて、全てを理解して下さる人がそう沢山おられるとも思えません。

自分の原点を思い起こすなら、それは間違いなく京都の町屋にあったと言えます。住所は、上京区室町通り下立売上る勘解由小路町一六四番地。地元民以外には、正確に発音することは不可能と思えます。 その町屋には、えもいわれぬ匂いが満ち満ちており、通りの角を曲がった途端に、その存在が判ると言われたほどでした。

その町屋は、遠い昔から薬種商を営んでいました。そして、次第に香木や薫香原料の取り扱いに重きを置くようになっていました。

今になって考えると、それは夢のように贅沢な環境でした。なにしろ、純金よりも金銭的価値が高いと言われた香木の塊が、ゴロゴロと転がっていたのですから。ようやく物心がついたばかりの少年にとって、世間では全くと言っていいほど実体を知られていない稀少な「大自然の恵み」も、ごく当たり前の存在でしか無かったのです。おじいさんが、それらを鋸で挽いたり、独特の刃物と槌で割ったりする姿を、普通の仕事として眺めていました。少し大きくなってからは、その真似事を試みてみたり、ずいぶん足手纏いだったことと思いますが、不思議と叱られた記憶は残っていません。その当時から、職人仕事というものに異常なほどの関心と共感を抱いていたのだと思います。

中学・高校と進むにつれて、その傾向には益々拍車がかかったように思います。軟式庭球部を中心に、三つの部活を掛け持ちしていましたが、そんな中、暇さえあれば、番頭さんの手伝いを買って出ていました。作業場で隣に陣取って、一人前に自分用の道具を確保し、白檀や沈香の分割りを作ったりしていました。

白檀の丸太を挽く手伝いが一番の力仕事でした。その当時は、まだインド政府が原木の輸出に対して柔軟で、輸入も一トン単位で行なっていました。丸太は約一メートルに伐られており、「ドンゴロス」と呼んでいた麻の袋に二百キロずつ収められていたと記憶しています。

ひと袋に三本しか入っていないことが、ざらにありました。つまり、一本が六十キロを超えていた訳です。そうなると、必然的に直径が五十センチを超えることになり、しかも緻密で硬い香木ですから、挽くのは容易ではありませんでした。若気の至りと言うのでしょうか、一気に挽こうとして、勢いが僅か十分も持続せず、息を切らせたことが昨日のことのように思い出せます。

実家の仕事を支えていたのはもちろん父であったと思いますが、その父に活力を与え、動かして来たのは母に違いないと、或る時期に確信するようになりました。昨年二月に、まだ八十歳の〝若さ″で急逝したことは悔やまれてなりませんが、ただひたすら無邪気に願うことを恐れず、その願いを自分なりに成し遂げて行った稀有な才女の志は、いつしか私自身の中に根付いたものと今は信じることが出来ています。ですから、母も、もちろん私も、幸せ者だと有り難く思っています。

大学に進んだ頃、その母の願いの一つが、ひときわ明確に顕れたと感じられたことがありました。それが、次男である私に、東京で小さな店を持たせるというものでした。それからと言うもの、母が上京する頻度が増し、 渋谷・青山辺りに拠点を捜し求めて、散策を繰り返してくれていました。最終的には、昭和五十五年頃に麻布十番にご縁があり、五十八年になって屋号も「麻布 香雅堂」と決めることになったのです。三十歳にもなってまだぼぉーっとしていた「店主」に比べて、母の情熱と意欲、そして意志の力の凄まじさには、終生頭が上りません。『香雅堂の創始者は、母でした』と素直に言えることに、むしろ『あの人の全てを、受け継いでいる』と喜べるという意味において、無上の心地よさを覚えるのです。

母は、香木のことが心から好きでした。そして、自然の香りがする小物たちや、香道具の製作にも情熱を傾けました。それらを私との協同で、麻布で実現しようと頑張ってくれたのだと思っています。

十文字美信さんは、そんな母のお気に入りの一人となりました。ただ、いつになっても、私が『十文字さんがなぁ、』と話し始めると、決まって『ああ、大文字さんやな、』と返すのです。根っからの京女ならではの思い込み故だったのですが、世界に誇れる鬼才を図らずも上方漫才のネタと化してしまっていた母は、偉大な人だったのかも知れません。小心者の私は、それから二十年を経た今でも、そのことを思い出す度に、つまり、十文字さんにお目に掛かる度に、人知れず『ごめんなさい』と唱えているのです。

十文字さんが母のお気に入りだった理由の一部は、私にも明確に理解出来ます。「ほんもの」を見極める力を持っていて、それらを愛する術を知っているからです。当時でも貴重で高価だった「伽羅」を匂い袋にして愛用された人は、武原はんさんの他には、十文字さんだけでした。

写真家としての十文字さんにとって、撮影するという行為は、「ほんもの」の本性・本質を暴きだすことに他ならないのではないかと感じています。それは、ただそこに在るものを映像に収めることとは、全く異なるものです。対象が実在の人物であれ自然の風景であれ、またモデルを駆使した想像上の幻影であれ、完成した画像の中には、撮られた対象自身さえ知り得なかった「本質」そのものが視覚的に具現化されている、そんな印象を受けるのです。撮影者というより、映像創造者であると。

『山田さんが、これと思う香道具を作ったら、いつでも言って下さい。撮りますから。』

いつ、どのような場面でのことだったか覚えていないのですが、その言葉に接し、反射的に『はい。その時には、お願いします。』とさり気なく応えたものの、意識は遠く宇宙の何処かを彷徨っていたように記憶しています。果たして、そんな時が訪れるのだろうか。「ほんもの」と認めて貰える作品を創り出すことが、自分に出来るのだろうか。それに応えられる職人さん達に、巡り会えるのだろうか。自信など、全くありませんでした。

十文字さんに撮影して貰うという「怖さ」に耐え切れる勇気を与えてくれる香道具を創り出す――その志は、幾久しく、私を支え続けます。

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