Column

2010.07.11

一炷烟中意得

香を炷く時、私は自分だけの宇宙の中に、全身全霊を漂わせる。

目を閉じ、耳を塞いで一炷の香気に集中することによって、見えてくる色や風景があり、聞こえてくる音や旋律がある。

その感覚は、極めて私的なものと言わざるを得ない。しかしながら、それを他の誰かと共感することが不可能に近いとしても、さほど悲観することはない。むしろそれは自然なことであり、人と人とのつながり原点は、それぞれが個々の宇宙を持っていることに在ると考えるからである。香の楽しみ方は各人各様であるのが当然で、そこには強要されるべき一定の概念とか、あるいは基本とか言うものは存在しない。香道においても同様で、各流派が定める規範は、使用する香木の種類やその香りの特徴に一定の基準を設けるが、香の感じ方に及ぶものではない。唯一要求されるのは、ひたすら無心であること――精神を解放し、感性を研ぎ澄ませて香を聞くことである。

それにしても、香木とは実に不可思議なものである。「香木とは、一体何なのですか?」と問われた時、本当は「さあ、一体何なのでしょうかね?」と問い返したいのである。木であって木では無く、脂であって脂では無い。半世紀の永きにわたって、数千・数万はおろか、数え切れないほどの香木に接して来たにもかかわらず、ただの木が香木へと変化する様をこの目で確かめる機会はついぞ無かったし、これからも永遠に訪れることは無いであろう。

あえて抽象的に言い表わすなら、香木とは、己に害をなす菌の活動を抑えるために植物が作り出す物質――フィトン・チッド――の賜であり、悠久の時の流れの中で大自然が生み出した知恵の結晶の一つである。人間ごときの浅学が及ぶものではない。余談になるが、もし人間がほんの少しでも賢くありたいと願うのなら、大自然の叡智を学び、敬意を払うべきである。目に見えない微生物に至るまで、ありとあらゆるもののいのちをむやみに奪ってはならない。たかだか一つの種のわがままや思い上がりが、やがては全てを滅ぼすことに繋がりかねないからである。

さて、一つひとつの香木は微妙に異なる特徴を持ち、全く同じ香りを出すことは決して無い。同じ香木であっても、部位の違いによって、香りの立ち方は一様ではない。その香りは仄かではあるが、か弱くはなく、清楚でありながら単調ではない。

適切な火加減を得たごく小さな香木のかけらが発する香気を、一体どの様な言葉で表現すれば良いものか。いや、むしろ言葉に換えて表すことができないところに、醍醐味があると思いたい。

香を聞く――問うて聞きたいのは、大自然の神秘である香木を媒体として聞く、大自然の一部である自分自身の声――答えは、目に見えることなく立ち昇る、一炷の煙の中に在る。

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